作庭家と探求する新たな畳−内山貞文(ポートランド日本庭園文化・技術主監)2/3

自然を排し安全を確保した住空間が主流の現代だが、自然(ワラ畳)を持ち込むことで生まれる、人が生きるために必要な快適で美しい環境を再考するために、住空間に自然を持ち込むことに長けた日本庭園の造園・作庭家の手を借りることにした。内山貞文氏(ポートランド日本庭園文化・技術主監/造園・作庭家)と模索する、かつてない伝統的な畳(XT)とは?


Sadafumi Uchiyama sou-shin-sha XT 3

何も変えないというレガシー/耐えて繋ぐ伝統継承の作法

ポートランドの日本庭園は今年で55歳になりました。この日本庭園は、僕が一からつくったものではありません。55年という歴史がすでにあり、僕が何か出来るとすれば、これからのこと—今から先の未来へ向けた仕事です。この庭での僕の使命は、方向性を新しく変えるとかではなく、55年の歴史を活かしていくことです。僕よりも庭の生命の方が長いわけですから、僕はその長い庭の命を次代に繋いでいくことを全うするだけです。「変えられないものは、変えない」というのが僕の哲学です。この庭の管理責任者に就任した際、次はどんな人が担当するのだろう? とみんな期待を寄せているので、取材でも「あなたのレガシーは?」など、必ず聞かれました。ですが、僕が「何も変えない」と答えると、「どうやらアイツは何もやらないらしい」とみんな帰っていきました(笑)。何も変えないことや、留まること、日本庭園の長い所産や歴史を大事にすることなどは、案外難しいことでもあるんです。世間は、新しいものや変化を常に期待し、それが興味や消費を産むものになっていますから。でも、僕が、歴代この庭を管理してきた人たちと日本庭園の歴史を顧みずに、思うままにやるのは間違いだと思う。今後も何世代にも渡って受け継がれていく庭なので、僕はその繫ぎ目としての使命を全うしたいと思っています。
僕の友人に、京都で代々続く作庭家がいますが、彼はその家の16代目です。僕の家は、僕で4代目なので、この業界ではまだまだ新参者なんです。この業界には、室町時代から21代続く造園家もいます。そんなふうに代々受け継がれてきた、長い仕事に就く者は、「自分を認識してくる」のです。僕がタイムマシーンに乗って、歴史をいじることはできませんし、いじっちゃいけない。それは、日本庭園の伝統を受け継ぐ者として、認識されてくる感覚なんです。
庭園や畳などがおかれる状況は、すれすれの低空飛行にならざるを得ない時もありますし、無理をすると、さらに急降下します。数十代続く作庭家の家でも、先祖代々すべての人がスターなわけではないのです。ある時代の人は、すれすれの低空飛行だったかもしれませんが、それでも次代に繋いだわけです。そういう人たちは、決してスターではないけれど、自分の役割をしっかり理解しているとも言えます。辛うじてでも繋がれると、次代の人にがんばる機会が与えられますから。あと、僕らは誤解してしまいがちですが、伝統文化は必ずしもいつも、高いところを飛んでいるわけではないのです。そういう中で、「耐えて繋ぐ」ということも伝統継承の一つの態度だと、僕は思います。

Sadafumi Uchiyama sou-shin-sha XT 3

Sadafumi Uchiyama sou-shin-sha XT 3

Sadafumi Uchiyama sou-shin-sha XT 3

Sadafumi Uchiyama sou-shin-sha XT 3

良いものは、残る運命にある

今の時代、日本庭園は海外では新しくつくられ続けていますが、国内で新しくつくられた事例はほとんどありません。畳も生活様式の変化から、日本庭園と同じように、新築の家やマンションには採り入れられなくなってきています。
僕が目指していることは、日本庭園や畳が公共空間に浸化していくことです。たとえ個人住宅に、日本庭園や畳が採り入れられなかったとしても、「本当になくてはならないもの」であるならば、それは、「どこかには、なくてはならないもの」なんです。それを補完するのが、公共空間だと僕は思っています。庭も畳も、時代とともに使われたり使われなかったり、先細りしたりすることはある。ですが、「良いものは基本的に、残る運命にある」と僕は思っています。どういうことかと言うと、人間という生きものに対して良いもの・必要なものは、多少の形状や色などの変化はあったとしても、そのもの自体は決して無くならないということです。畳はそういうものだと思います。生活様式や住宅が変わったとしても、畳が本当に人間にとって必要なものであれば、たとえ数が少なくなったとしても、残る運命にあると思います。
あと、畳も庭も使ってくださる人がいなければ、成り立たない。それは、観てくださる人がいなければ成立しない歌舞伎や能とも同じです。ということは、そのもの自体には、価値はないのです。「それが存在し、社会の一部であること」に価値があるのです。その点では、石も歌舞伎も同じで、そのもの自体の価値はないのです、本当は。
余談ですが、歌舞伎や蒔絵の職人には人間国宝がいますが、畳職人や庭師には、人間国宝がいません。そうすると、「庭師の中から人間国宝が出るような業界に育てなければならない」という声も業界内から聞こえてきます。でも、僕は、全く逆だと思っているんですよ。庭師から人間国宝が出た瞬間に、日本庭園は絶滅の危機を迎えると思っています。要するに、自生できないものになると、保護を受けたり博物館に入ったりしなくてはならなくなるわけです。博物館に入っているものは、護られてはいるけれど、ある意味では死んでいて、自分で生きることができなくなっている状態なのです。だから、どんなに低空飛行でも、「自分で生きられるものでなくてはならない」と僕は思っています。工芸などは暮らしの中で使われてこそ、本来の価値が出てくるものですし、歌舞伎だって観客がいてこそ、本当に機能するものになるわけですから。

次ページ
作庭家と探求する新たな畳−内山貞文(ポートランド日本庭園文化・技術主監)3/3