作庭家と探求する新たな畳−内山貞文(ポートランド日本庭園文化・技術主監)1/3
内山 貞文(うちやま・さだふみ)ポートランド日本庭園文化・技術主監/造園・作庭家。
1955年福岡県生まれ。明治後期から造園業を営む家に生まれ、幼少の頃より職人の手ほどきを受ける。タンザニア、イエメンでの開発協力を経て1988年に渡米し、イリノイ大学ランドスケープアーキテクト学士号および修士号を取得。日本庭園の技術と西洋のランドスケープアーキテクトとしてのトレーニングを融合、個人庭園から公共緑化と幅広い分野で活動。代表作は、シカゴ市ジャクソンパーク、デンバー植物園やデューク大学内の日本庭園など。北米日本庭園協会(NAJGA)の構想・設立発起人。2010年からアメリカ各地で、商業施設や個人住宅など、隈研吾氏(建築家)とコラボレーション。アメリカをベースとして講演・執筆活動。公共日本庭園や大学にて造園設計・施工指導をおこなっている。2018年に日本庭園協会100周年式典で「日本庭園協会賞」受賞。
作庭家と探求する新たな畳−内山貞文(ポートランド日本庭園文化・技術主監)
自然を排し安全を確保した住空間が主流の現代だが、自然(ワラ畳)を持ち込むことで生まれる、人が生きるために必要な快適で美しい環境を再考するために、住空間に自然を持ち込むことに長けた日本庭園の造園・作庭家の手を借りることにした。内山貞文氏(ポートランド日本庭園文化・技術主監/造園・作庭家)と模索する、かつてない伝統的な畳(XT)とは?
時間と手をかける「庭」の仕事
基本的に、僕の仕事は二つあります。一つはポートランドの日本庭園の文化・技術主監として庭園の管理の仕事です。もう一つはLandscape Architect(造園・作庭)の仕事です。物づくりや庭づくりに共通して言えることは、「つくる人は常につくっていなくてはならない」ということです。ですから、庭園の管理の仕事と併行して、アメリカ中の個人庭園から公共施設の庭まで、幅広く庭の設計や庭づくりの仕事もおこなっています。自分でデザインした庭は、自分でつくるところまですべてやるので、つくれないものはデザインしません。あと、「庭づくり」と一口に言っても、最初は物を置いただけの状態。庭が完成するまでには、数十年という長い年月を要しますから、僕の仕事は時間と手をかける仕事だと言えます。
長い旅の末、出会いなおした「日本庭園」
—実家を飛び出し、タンザニア、イエメンへ
職人というのは、つくることを訓練されている人たちです。僕は造園家の家に生まれ、幼い頃から家業を手伝っていましたから、つくることはできたのです。10歳の時から、日曜日はありませんでしたし、18歳くらいになると自分が知らないうちに職人として訓練されていたことに気づき、愕然としました(笑)。それで、とにかく実家や家業から離れたい一心で、22歳の時に、青年海外協力隊としてタンザニアに3年行きました。僕がタンザニアで学んだことは「死ぬ以外の怖いものはない」ということ。それくらい、当時は治安や衛生状態が危険な環境だったのです。マラリアに4、5回感染し、死ぬ目に何度も遭いました。もっと長く居たかったのですが、体調を崩し帰国することになりました。その後、飽きもせずに、次はJICAの仕事で2年間、イエメンに行きました。そこでもう一つ学んだことは、「当たり前はない」ということ。僕の当たり前は、日本基準でしかないということを思い知り、そこから潔さを学びました。あとは、「誤解も理解の一種」ということです。文化が異なる世界で暮らす中で、「当たり前」という考え方自体が頭から吹っ飛びました。それ以来、とんでもないものを見ても「どうして、こうしないんだろう?」と自分基準で考えるのではなく、「どうして、こうしたのかな?」と相手基準で考え始めるようになりました。後から思えば、タンザニアやイエメン滞在は、そういう考え方の訓練の時間だったのだと思います。そのくらい5年間で、徹底的に打ちのめされましたから(笑)。
あと、造園や緑化という、広い意味で緑に関わる仕事を見直し始めたのも、この時期でした。僕がこの5年間で見てきたのは、薪のために伐採が繰り返された、荒れ果てた土地ばかりでしたから。この二ヶ国での大規模緑化の経験から、セントラル・パークのような大きな庭づくりを手掛けたいという思いが芽生え、アメリカの大学で造園を学ぶことにしました。
—アメリカでの日々、遠くから掘り下げる日本
日本で培ってきたと思っていたことが、タンザニアやイエメンでの経験を経て、すべて消しゴムで消され真っ白になった状態で、アメリカへ渡りました。そこで待っていたのは、徹底的な質疑応答の世界でした。アメリカの大学の授業は質疑応答で進められていくので、言葉でのコミュニケーションは必須。僕はつくることができても、それを言葉で説明できなかったのです。たとえば、「石を組め」と言われたら、パッと組めるのに、「なぜそのように組んだの?」と訊ねられると、何も答えられないわけです。それまでずっと経験則でやってきていたから。そこで、「経験則の引き出し」から、一つひとつ取り出しては眺め、言葉にしていくことを大学で訓練していくことになりました。同時に気づいたのは、「僕の引き出しの中にはすでに、日本庭園の歴史が詰まっている」ということ。引き出し方がわからないから、中のものを取り出せないだけで、引き出しの中は決して空っぽではなかったのです。
僕たちは「言葉にならない」とか「言葉にできない」とか簡単に言ってしまいますが、そこには「伝えられるべきもの」がたくさんあると思うのです。だから、それを言葉にして伝えていくことを諦めてはいけないと思っています。その翻訳作業も、僕の大切な役目の一つだと思っていますし、たぶんこの作業は死ぬまで続くでしょう。日本的なものや文化の下地を共有していない人たちに向けて、言葉にし、翻訳し、伝えていく仕事は、ある意味では、遠くにいながら日本の文化を掘り下げることなんです。
アメリカではもう一つ、僕の視点を変える出来事がありました。僕はイリノイ大学で学んだのですが、そこで、地理を文化的な視点から眺めていく「文化地理学」の勉強をしました。風景がどのような文化的影響を受けながら形成されてきたのか、その背景や過程を研究する学問です。その時に「同じ風景の10通りの見方」( D.W.Meining, “The Beholding Eye Ten Versions of the Same Scene” )という短いエッセイに出会いました。一般的に、庭は「芸術」「工芸」「住空間」という視点でしかつくられていませんが、そのエッセイは、「風景は、芸術であり、政治であり、経済であり、社会であり、エコシステムであり……」というように多様な視点で風景を捉えているものでした。僕自身、これまで造園の仕事を狭い視点でしか捉えられていなかったという気づきがあり、風景を眺める視点が大きく拓けていく驚きと実感がありました。たとえば、ポートランドの日本庭園を眺めた時、「東洋の美しく珍しいものがある」と、そこに文化や美を感じる人もいれば、「55年でどれくらいの価値を生んだのだろう?」と投資の対象として見る人もいる、ということ。その両方が事実なのです。それ以来、僕の中での日本庭園が、今までの日本庭園ではなくなったんですよ。実家は代々続く造園家の家系だったけれど、僕は、アメリカで日本庭園を勉強し直したとも言えるんです。
あと、僕に客観的にものを見る力があるとすれば、それは能力ではなく、これまでの経験から使えないものをすべて捨ててきたからなのです。一所でしか通用しない、常識や当たり前という考え方を捨ててきたのです。多くのことを捨てても、残るものはやはりあって、残ったものは強みになります。それが僕のベースになっています。